ヤクザル調査隊隊長の好廣眞一は、2013年3月、龍谷大学経営学部を退職いたしました。これは、2013年4月20日に京都大学大学院理学研究科2号館で行われた、退職を記念する会での講演を採録したものです。講演ビデオからの文字起こしは、事務局の半谷吾郎(京都大学)が行いました。かっこ( )内は、半谷が編集で付け加えたものです。





「好廣眞一先生の退職を祝うヤクザル調査隊の会」講演:「ヤクザル調査40年」
好廣眞一


このようにたくさんの方に来ていただいて、本当にうれしく思います。懐かしい方々にお会いできて、幸せです。「ヤクザル調査40年」というタイトルですが、ここにあります雑誌「にほんざる」を作ろうと、かつての若手研究者が決意したわけですが、その翌年から調査を開始して、それから40年ということです。お手元のレジュメと資料をご覧ください。資料は、「京都発サル学の60年」という、京都新聞の記事です。1948年、今西錦司たちが都井岬での馬の調査中にサルの群れに会って、ニホンザル野外調査が始まったわけですが、そこから、この連載が行われていた2007年までが、60年ということです。その連載記事の最後に、ヤクザル調査隊について紹介されています。裏側は、私たち家族が1年間屋久島に住んでいた際に、執筆したものです。何新聞だったか忘れてしまいましたが(毎日新聞)。

わたし、京都生まれですが、高校時代、今から思うと、朝日新聞に本田勝一がニューギニア高地人について連載しておりまして、それが非常に印象深かったことを覚えています。また、毎日新聞に「学者の森」という記事が連載されておりまして、これには、おそらく、西田利貞さん、私の4年先輩なんですが、その記事が載っておりました。それが高校のときに非常に心に焼き付いておりました。ただ、大学に進学するときには、湯川秀樹がまだ現役の京大の教員でしたから、物理学をやろうと思って京大の理学部に入りました。湯川さんは、私が2年生の時に退職されました。1年生の時に聞いた講演で、彼は「これからは生物学の時代です」と語っていました。1年、2年のとき、物理学は向かないな、と思って、生きものの世界に生きようと思ったわけです。大学院で自然人類学という研究室に入って、霊長類の世界に入りました。



 1948年に宮崎県で今西さん、川村俊蔵さん、伊谷純一郎さんがサルの群れに会ってニホンザルの研究が始まったわけですが、その後伊谷さんと川村さんが1952年に初めて屋久島に調査に行きました。そのときのことを、「屋久島のシカとサル」というガリ版刷りの報告書で書かれています。その目的は、調査もさることながら、もう一つは、モンキーセンターの設立に向けて、生きたサルを供給しなければならず、当時、生きたサルを捕獲できるのは屋久島の猟師だけだったので、それを依頼しに行く、ということがありました。そういう形で、最初のヤクシマザルの調査が行われました。その後、モンキーセンターには4000頭余りの屋久島のサルが実験用に供給されることになります。1967年には京都大学の霊長類研究所が設立されました。これも大きな節目でした。この年屋久島では、小杉谷という屋久杉伐採の中心であった集落がなくなりました。1972年に、屋久島の柴鐵生さんたちが、屋久島を守る会を結成されて、保護運動を展開されます。1973年に上屋久町議会が屋久島原生林の保護に関する決議というのを早くも採択しています。これは、非常に大きな意味を持っていたと、私は思います。

1973年に、われわれ大きな決意をします。当時、われわれのような若手研究者だけでなくて、伊沢紘生さんや東滋さん、特に東さんが非常に熱心に屋久島をやろうと、おっしゃっていました。当時はまだ霊長類学会はありませんでしたが、年に1回、春に日本モンキーセンターに集まってプリマーテス研究会というのを開いて、いろんな研究者が集まって研究発表をするという、いわば学会の役目を果たしていました。その夜に霊長研の大部屋に集まって議論するのが、決まりのようになっていました。その場で、われわれ、つまり東さん、足沢君、岩野君、増井君、福田史夫君、渡邊邦夫君、好廣、などの人たちが話し合っていく中で、二つのことを決意しました。ひとつは、屋久島をやろう。つまり、長いこと、各地で野生のニホンザル、あるいは餌付けのニホンザルを長期調査をしている中で、自分のフィールドの問題点を解決するには、屋久島をやるべきではないか。そういう機運が盛り上がったんですね。それは、屋久島というのは、日本最大の個体群が連続分布している。つまり、孤立分布していたり、餌付けされた個体群というのは、本当の姿ではないのではないか、そういうことが議論されました。それで、屋久島をやるべしという決意をしたのですが、同時に、もうひとつの決意が、自分たちの雑誌を作ろう、雑誌にニホンザルを作ろうというものでした。そして翌年、第1号を出すわけです。

翌年、1973年、屋久島で予備調査をいたしました。菅原和孝君、上原君、岩野・福田喜八郎君、増井君、私で五次の下見を行いました。それで、1974年に調査を開始することになります。当時から、島の西部から眺めた永田岳は、たいへんな憧れでありました。あそこまで、ということを思っていたわけです。つまり、ご承知のように、屋久島には大きな高い山があり、下から上まで連続して森林が分布している、そこにヤクシマザルがいるんやで、ということに、思いを強くしました。1973年の夏に行われた一斉調査には、私は参加できなかったのですが、秋に永田岳を眺め、国割岳を眺めて、上部の調査をやろうと思いました。秋には、西部の垂直分布調査を始めました。ご承知の通り、西部域の尾根は非常に険しいわけで、ちゃんとしたルートをつけないと、上り下りが困難ということがあって、1974年は、毎日、半山中央稜の道付け、ルート開拓ということをやっていまして、その行き帰りにサルの声を聞いて、お、いるいる、ということを感じていました。1974、75、76年と一斉調査を行いました。1976年には、ここにおられる山極寿一君、あるいは丸橋珠樹君、黒田末寿君が参加されて、彼らが人付けをして、西部林道域は世界的なフィールドになっていくわけです。一方、われわれは1977年の8月と12月-翌年1月に山頂域の調査を行いました。それは、1555mに鹿之沢小屋という無人小屋がありまして、そこをベースに夏と冬に調査をする、というものです。これは冬の永田岳です。冬には、サルはいません。その時のことは、このモンキーという雑誌に書きました。これは、さまざまな方が、その当時までのヤクシマザルの調査を報告された特集号で、山極君が編集されたものかな。この写真も山極君かな。
(山極:僕じゃなくて、大竹さんが編集されました)

これは雑誌にほんざるの第一号です。ニホンザル宣言というものを載せました。増井君が執筆したもので、当時の若手の思いがこもっています。巻末に、三戸サツヱさん、幸島で長らくニホンザルを見ておられる方ですが、雑誌にほんざるの応援を書かれています。

このように、海岸から山頂まで植生帯が連続しているところでやりたいなというのが、われわれの思いでした。1974年、道切りをしながら、あるいは1976年、半山中央稜を登っていくと国割岳が見えるわけです。それを見ながら、調査したいなと思っていたわけです。たいへん魅力的に見えました。上部域の調査を夏と冬に行ったわけですが、夏には、けっこう人が、人じゃなかった、ニホンザルが住んでいたわけですね。このあたり、山頂部で調査しました。この部分は、1983年に、中部域を調査したものです。夏の調査の調査域ですが、鹿之沢小屋に泊まりました。尾根筋を歩いて調査をする、一つのルートを二人で歩いて、三ルート調査する、ということを行いました。これは、下から上がっていく途中のサルです。これは、サルの糞です。夏の調査で、上には、けっこうな集団がいるということが分かりました。レジュメに1973年から88年まで、つまりヤクザル調査隊が始まるまでにどういうことが分かっていたかを書いていますが、川村さんと伊谷さんの1952年の報告書には、こう書かれています。まず、ヤクシマザルは、海岸に近い地域と中央山岳地帯を除いた傾斜の急な中腹部を占拠している、つまり海岸部と山頂部にいないよ、と。次に、群れの個体数は、4―5頭から50頭で、20頭内外のものが多い。100頭を超えるものはない。たしかにこれは正しい。三番目には、各群れは1平方キロメートルくらいを利用し、隣接する群れと拮抗的、対立的に暮らしている、テリトリーも個体数もほぼ一定だ。これらについて、われわれは1973年から88年までには、次のように再確認したわけです。分布については、予備調査のときに、下から上まで、永田岳の山頂まで、群れがいるということが分かりました。ということは、海岸から、永田岳山頂まで夏は群れが連続分布している。しかし冬は、1450mまでしか行かないよ、ということが分かったわけですね。分布密度と群れサイズということを書きましたが、群れサイズは、上部域では、わずか1群だけしか、雪の足跡を見ることができませんでしたが、12頭という小さいものでした。群れの密度は1平方キロメートル当たり0.33、個体密度は4頭という値、これは厳密ではありませんが出しました。上部域に、サルがいることは確かなんだが、夏はいるが冬はいなくなってしまう、では、どこか中部域で調整されているのか、上部域で見ていると、どうも夏にずっと上部域にいる群れと、中部域と往復する群れがいるような気がしました。これはまだはっきりしていません。上部域では分からないことが残っています。上部域では、ブッシュとガケがひどくて、群れを見つけても、追いかけることができないんですね。




そこで、追いかけられるところ、中上部域で追いかけられるところとして、平瀬を選ぶことになりました。ここは、丸橋君が前に調査していました。ここは、垂直分布帯を守れという合言葉で、地元の人が守ったところ、つまり、(現在の)われわれの調査地であります。そこで、1988年まで、調査を行いました。中部域で調査をしてみますと、800‐1200mくらい、ちょうど今のヤクザル調査隊の調査地ですが、そこで見た集団は18頭と16頭という二つでした。これを、たしか丸橋君は瀬切のI群とII群と名付けていましたが、これはひょっとしたら今の平瀬群(HR群)なのかもしれません。それが、ヘソ山というところを毎日一周回るという遊動を、夏に一月追いかけたときはしていました。ざっと計算すると、群れ密度は1平方キロメートル当たり0.6-0.75くらいで、個体密度は12くらいの、これは1例だけですが、ともかくこういうデータを出しました。

われわれが屋久島の西部域にはじめて行ってびっくりしたのは、1平方キロメートルあたりに1群も、30頭もいるで、ということでした。と言いますのは、わたし、志賀高原で調べておりましたが、これより一桁低い密度でしかない、というわけで大変な驚きだったわけです。そのうち、さらに、ヤクザル調査隊の中で調べていくと、1平方キロメートルあたりに105頭なんて言うすごい数になっていくわけですね。ヤクザル調査隊以前、屋久島のサルがどのような状態だったかを振り返ってみますと、1960年代ごろまでは、狩猟圧でずいぶんたくさん捕られて食べられ、また商品として江戸時代以来出されておりましたから、そうした圧力で低かった。ですが、70年代から増加をはじめて、ちょうど我々は、増加し始めたころ、見始めたのだろうと思います。そして、増加して群れが分裂して、80年代半ばまで分布を広げて、個体数を増していく、それによって海岸部はサルであふれ、海岸部から分裂した群れが上の方に行って、上部域まで達していったのが、80年代なのかな、という気がしています。それで、ヤクザル調査隊であります。

ヤクザル調査隊は、1989年に、海岸部の猿害多発地を調査することから始まりました。これはやむにやまれぬ事情がありまして、当時、屋久島でたくさんの人がサルの調査を行っていたわけですが、どうも評判が悪い。そして猿害がたいへん多くなる。それを捕ると、サルがいなくなるんじゃないかという警告をヤクザル研究者から受ける。それは、地元の人にとっては、非常に片腹痛いことだったという気がします。そこで、なんとか我々に猿害対策になるサルの調査ができないものかということで始めたのが、猿害地のヤクシマザルの分布を正確に知ることでした。これが猿害対策の基本ではないか、と始めたのが、1989年のことでした。大井徹さんが、ブロック分割定点調査法という方法を編み出しました。そこで調査してみると、なかなかよく分かる。永田と栗生の、二か所で行ったわけです。そして翌年は、ここにおられる山極君、丸橋君、古市剛史君といったベテラン調査員が、西部林道域で、特定の群れにぴたっとついて、それを素人定点調査員が、どれだけそこで発した声を聞くことができるか、ということを調べました。初日は、ひどいもので、20%しかわからない。サルではないもの、シカやアオバトの声をサルと聞きちがえ、セミの声も、遠くで鳴くと、サルの声に聞こえてしまう。しかしながら、一日そういうことを経験しますと、二日目からは、70%の割合で聞くことができました。これはすごいことで、ああ、これは、いけるんじゃないか、つまり、多くの人が定点調査をすることで、70%の声を聞くことができるとすると、広い面積を調べるのに都合のいいことであるというふうに考えました。

そこに、鹿児島大学から京大に、猿害地のサルの調査をしてくれへんかという、提案があったわけですね。そこで、1991年、1992年と、屋久島海岸一周の調査をするということがあったわけで、そのときに高畑由起夫さんが事務局長になって、非常にすばらしい事務局長だったと思いますけども、彼が考えたのが、定点調査員4人に対して、班長を一人、統括者として置く。班長は同時にトラッカーとして追跡調査をする。定点調査と追跡調査を組み合わせて、1平方キロメートルのヤクザルの分布と個体数を調べようという方法を、彼が定式化したわけです。そうしてやってみますと、さまざまなことが分かってきました。これは、鹿児島大学の、鹿児島県の依頼によるところの報告書です。これが、屋久島一周の分布です。これが、悉皆調査をすることでわかったわけです。集団サイズは、このように大きいものから小さいものまでさまざまなものがいました。地域によって、ずいぶん違いが大きいということもわかりました。西部林道域が一番密度が高かったわけですが、このように尾之間から栗生のところにずいぶんたくさんのサルがおり、宮之浦から安房のところでずいぶん少なく、それは森林の残り方に対応していました。

1993年以降は、垂直分布調査をすることになりました。1993年の調査は、たいへん思い出深いのですが、山極君が参加してくれた年、それから半谷吾郎君が屋久島に1年生で最初に参加した年でなかったかと思います。で、黒味川上流域を調査したわけですが、これまでで僕が体験した最悪の調査だったと思います。前期前半はよかったです。快調で、山極君が、「この方法でよく分かるもんやね」と言っていたのが、今でもたいへん印象的です。ところがその後、台風が三つ四つ来ました。ほうほうの体で逃げたんですが、あれはいまだに、危なかったなと思います。道のような川という、道のところに、川が流れているわけですけど、そのほかに、これまで川がなかったところに、川がだだっと4、5メートルの幅の濁流が流れておりました。これはちょっと、車で行ったら車ごとさらわれるんじゃないかというので、しばらく待機しておりましたら、さいわい引きましたけども、そういう形で、ほうほうの体で逃げたんですけども、その体験、その失敗が、その後の調査に活かされるようになったと思っています。1993年の台風は、非常に大きなものだったんですけども、そのとき、われわれ家族は、屋久島に住んでおりました。

翌年、1994年は、国割岳をやろうと、尾根にテープをつけまくったわけです。1994年に、国割岳西斜面の垂直分布の調査をしました。われわれ、半分はテントを担いで、山中で分散し、テントを張って暮らす。半数は、下界から西部林道域の調査をするというようなやり方をしたんですけども、水を確保しようと思って、事前に各テン場予定地の水を下見していたつもりが、私たちのテン場、たしか座馬耕一郎君一緒やったね、行ってみたら、ちょろちょろとした水のところに、シカが腐乱して転がっているんですね。で、ぶよぶよっとこう、水にあるものが漂っておりました。おおー。しかし、これは、しょうがないですね。それを沸かして、毎日沸かして、鹿水というのを飲んでいました。もうひとつ、これは評判が悪かったですけども、高度別の音声頻度というのを取ったわけですね。つまり、高度分布を音声で記録できないかというので、今も私、はめていますけども、一分ごとにピッと鳴るデジタル時計をたくさん買い込みまして、調査員に全部渡しました。それで、一分ごとに、いくつヤクザルの声が聞こえたか、ということを記録する。こういうことをやったんですね。たしかに、データは取れたんですけども、しかしながら、これはたいへん評判が悪くて、一分ごとに鳴られると、とてもたまらないわけで、せっつかれるようで、たいへん評判が悪かったわけですが、ともかく、そういうわけで、そういう調査を、94年にいたしました。




翌年は、その続きのところを調査して、この地域の垂直分布を出したわけです。これがこうしたデータになるわけですが、300メートルまでは、日本で一番密度の高い、105頭という割合でいるよと、それより上は、どの植生帯でも30頭だよと、そういうデータが出されたわけです。それで、海岸域は、ニホンザルとして一番密度が高いわけですが、300メートル以上の、1平方キロメートル当たり30頭というのは、西日本の照葉樹林帯の密度の下限あたりに位置する。その一方で、下北などの東北の落葉広葉樹林は、一桁低いわけですけども、屋久島の上は、東北地方のブナ・ミズナラ林にあたる気候帯でありながら、常緑樹林帯の下限の密度を維持している。それは、林床にハイノキをはじめとする常緑の葉っぱがあって、それを食べられるからだということが、分かってきたわけです。

1994年に、鹿之沢小屋に気象観測用の温度計を設置いたしました。それをもう一回見に行ったのが、1995年の正月だったんですね。ところが、この時僕は非常にしんどくて、ほうほうのていで、なんとか、小屋にたどり着きました。今から思うと、危なかった。あれでよく、心臓弁膜症が発症しなかったと思います。その後、心臓弁膜症ということが分かりまして、夏に手術することになりました。前年の調査で、僕が事務局長と隊長を兼ねていて、非常に非能率な運営をしたものですから、これはいかんなと思って、事務局をお願いしていたんですね。それが、岐阜大学の平田享君、それから龍谷大の久保田裕之君、京大の半谷君、京都女子短大の古川真理さんでした。で、手術するので、あとは君らに、やるかやらへんかも含めて、任せたよ、と伝えて、入院して、手術しました。その4人が中心になって、見事に、1995年の調査が行われたわけです。調査が終わって、僕も手術が成功して、8月の終わりやったか9月だったか、4人に会ったわけですが、ほんとうに感動しました。ひと夏でこんなに若い人は急速に成長するものかと思いました。つまり、やっぱり、自分が責任を持って、様々なことを手配しながら調査するという、そういう体験が、ひと夏で、見事に、若者を変えるんですね。ほんとうに、感動しました。自信にあふれているんですね。あの時の4人の姿は、いまだに覚えております。翌年、わたしは調査できませんでしたが、2年後に、復活することになります。

その後、ヤクザル調査隊は、垂直分布の調査以降、1998年からは、中高度域の平瀬で、継続調査を始めることになります。それは、前の年に議論をさかんにいたしました。僕は、全島の調査もありうるな、と思っていましたが、しかし、半谷君と座馬君を中心とした若手は、より高いレベルのデータを得るという目的で、平瀬のところで、継続調査をしようと主張し、それが通ったということですね。それが、いまも続いていることになります。その後も、さまざまなことがありました。1999年には、松原始君が問題提起をしました。今、群れがいると言っているけれども、ほんまに群れがいるのか、こんな調査方法で、集団分布や密度が分かるか、という本質的な問題提起をされたというのが、たいへん大きなことだったと思います。2000年には、定点調査を復活させるということになり、現在のPE群、OM群、SY群が命名されました。台風が来て、テン場でサンバを踊りまくって、台風をはねのけるということがありました。そのとき、たいへん印象的だったのが、当時の替え歌で、高畑建設にお願いいたしましょうなんていうのがありましたが、つまり、高畑君が、快適に過ごせるように、テン場の整備を行っていただいた、ということがありました。

レジュメには、ずっと年代ごとに特徴的なことを挙げましたが、最後に、ヤクザル調査隊で何が分かってきたか、ということです。第一に、西部林道域以外の海岸域では、これだけのサルが生息していて、地域によって数が違うよ、ということ、それは、自然の広葉樹林の残り方と対応しているよ、ということでした。二番目に、垂直分布に関しては、先ほど申し上げた105頭、それより上は30頭という密度であることが分かりました。三番目に、今平瀬で調べている中で、植生の違いで、ずいぶん異なった密度を示しているようである、天然更新地が一番密度が高く、自然林や人工更新地よりも密度が高いということが分かっています。それは、その場所の果実量と関連したものかもしれないということが分かってきています。

わたしは、ヤクザル調査隊というものが、隊員に残した場の効果というものが、たいへんに大きかったと思っています。全国各地、時に海外から人が来て、若い学生たち、ときに高校生、あるいは社会人も来て、違った文化を持った、様々な人達が、テン場というところで密に関わりあう、いろいろな文化のぶつかりの中で、たいへんな刺激を受けるんではないかと思います。それが、人生に非常に大きな影響を与えているというふうに、見ています。そのことは、たいへん貴重な機会をひょっとしたら作っているのかなという気がします。ここにこう、これだけ集まっていただけるというのも、そうした場の効果、屋久島を好きになるということもさることながら、そこで過ごした体験が自分たちの生き方に影響を与えているということがあるんじゃないかなと思います。ぜひそうしたことを、あとで、皆さんと交流したいと思います。ちょっと、雑駁になってしまいましたが、講演を終わりたいと思います。ありがとうございました。




当日配布されたレジュメ
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