調査隊の歩み



 ヤクザル調査隊の歩みは、主に四つの時期に分けることができると思います。第一が1989-1990年のいわば方法の模索の時期、第二が1991年から1992年までの猿害地の分布調査の時期、第三が1993年から1997年までの垂直分布調査の時期、第四が1998年以降の大川林道終点地域での長期継続調査の時期です。

(1)方法の模索 (1989-1990年)

  ヤクザル調査隊は、1989年に結成されました。当時、屋久島全体で過去5年間に2250頭のサルが捕殺される状況の中、森林伐採や捕獲によってサルがどのような影響を受けているのかを明らかにしなくてはいけない、と危機感を抱いた好廣眞一 (龍谷大学)ほか数人の研究者によって、この調査隊は構想されました。屋久島では1973年以来西部海岸地域でニホンザルの長期調査が行われており、当時すでに野生ニホンザルの調査地としてはもっとも活発に研究が行われていました。ところが、屋久島のそれ以外の地域での調査はほとんど行われておらず、屋久島のどこにどのくらいサルがいるのかという、ニホンザルの保護や被害管理を行う上で重要な基本的な情報は、ほとんどわかっていませんでした。

 第一回の調査は1989年7月29日から8月10日までの約2週間。事務局を務めた大井徹 (当時龍谷大学非常勤講師、現在、森林総合研究所関西支所)が考案した方法が用いられました。調査地をえいやっと500m四方のブロックに分け、各人がその中でもっとも見晴らしのよさそうなところへ出かけて調査を行います。サルがもっともよく鳴く朝夕各2時間は定点で声を聞き、それ以外の時間は定点を離れて、自由にサルを追跡します。これは後に、500m四方のメッシュにひとりの定点調査員と、2-4のメッシュにひとりの統括者(=群れ追跡者)を配置して地域内の集団の分布を推定する「ブロック分割定点調査法」として確立される方法の原型です。調査域は屋久島南西部の栗生-黒味林道-太鼓・湯泊歩道-花之江河の地域でした。

 翌年1990年、定点調査法の有効性を確認するため、すでに群れの分布が明らかになっている西部海岸域で同様の調査を行いました。この2年間を通じて、この方法を使えば屋久島でニホンザルの分布を調査できるという感触を得ることができました。

 現在とは違い、当時はプロの研究者が調査の主体でした。1990年には京都大学野生生物研究会、日本動植物学院京都校など、その後の調査の主体となる団体の学生も参加していましたが、中心は野生動物保護管理事務所のメンバーでした。1989年は屋久町中間の公民館、1990年は上屋久町永田の海の家に宿泊していました。調査員は1989年が30人。1990年が43人。その後の大規模調査に比べれば、まだまだ小規模の調査でした。

(2)猿害地の分布調査 (1991-1992年)

 1990年の暮、鹿児島県から、京都大学に対し集落付近の猿害地でのサルの分布調査の依頼がありました。鹿児島県は当初、屋久島でサルによる農作物被害の防除方法を研究していた鹿児島大学農学部の萬田正治に依頼し、萬田がサルの野外調査のノウハウを知っている京都大学に協力を依頼したのです。過去2年間の調査で分布調査の方法を確立しつつあった好廣らの「ヤクザル調査隊」の事務局を、当時京都大学理学部人類進化論研究室の助手だった高畑由起夫(現在、関西学院大学)が引き受けることになり、萬田は移動や宿泊、食事などの運営面一切のバックアップにあたりました。

 「ブロック分割定点調査法」では、カバーできる調査域の面積は調査員の数に比例します。屋久島の海岸沿いに約70kmに渡って点在している集落付近を全部調査するには、膨大な数の調査員が必要です。この2年間の調査域は112km2、2年間の調査員数はのべ250名あまりの大規模な調査でした。鹿児島大学を中心に、京都大学や岐阜大学など、様々な大学から調査員が集められました。鹿児島県の依頼による調査だったため、資金は比較的潤沢で、調査員には1991年は交通費を全額、1992年も半額支給されていました。現在は交通費は自弁どころか、1996年からは参加費を徴収するようになっていることから考えると、うそのようなはなしです。集落付近の調査だったため、道端で定点調査をしている学生に地元の方がお菓子を下さったり、宿泊地に地元の方が猿害へのサルの研究者の姿勢について談じ込みに来る、などのこともあったようです。1991年には屋久島のニホンザル研究者のほぼ全員が「統括者」として参加しましたが、翌1992年には逆にほとんどいなくなり、2年目参加者を統括者に「成り上がらせる」ことになりました。結果、上意下達の大規模調査ではありましたが、調査の多数派はプロの研究者からボランティアの学生に移り、調査隊の中身も変化していきました。

(3)垂直分布調査(1993-1997年)

 隊長の好廣は、長らく長野県の志賀高原で調査をしてきました。豪雪地帯のニホンザルを見てきた好廣にとって、分布南限の島である屋久島のニホンザルの垂直分布を調べることが、年来の宿願でした。集落近くの分布調査を終えた後、その垂直分布の調査に取り組むことになったのです。

1993年はその最初の年でした。好廣は龍谷大学から2年間の期限で研究費を得、さらに1993年の夏から1年間家族とともに屋久島に住み込んで調査を行う計画でした。1993年の調査域は1989年にも調査を行った黒味川流域で、流域の海岸部から標高1600mまでの分布を調査することを計画していました。ところがこの年は、調査隊の歴史の中でも記録的な悪天候の年でした。予定通り調査を行ったのは前期前半のみ。残り4分の3の期間中に台風が三回接近。同じ時に鹿児島市で起こった水害は「ハチロク水害」として知られています。黒味川上流域の調査は途中で断念し、苦肉の策として島のほぼ反対、永久保の好廣の借家に泊まって、そこから黒味川下流域と西部林道の調査を行うことになりました。永久保から調査域まで約1時間半。車の数が足りないのでピストン輸送していると、最後の調査員が到着するのは昼近くになり、運転手の好廣は調査中歩きながら眠ったそうです。海岸部の調査とは違い、上部域に大量に人を投入したときにどんなトラブルが起こるかということを身をもって経験した年でした。

 1994年からは、西部域での垂直分布調査を行いました。西部域は屋久島でも唯一、海岸から山頂部まで途切れずに自然植生が残されている地域です。1994年は海岸部から1,323mの国割岳山頂部までの16km2の調査を行いました。この地域は海岸部を走る県道の一部である西部林道のほかは、登山歩道もまったくありません。約半分の調査員は永田の京都大学霊長類研究所屋久島観察ステーションに泊まって海岸近くの調査をし、残りの半分の調査員は食料、テントなど必要なもの一切をザックに担いで、好廣が整備した尾根にビニールテープで目印をつけた調査ルートを歩いて上がり、山の中でキャンプして調査を行いました。

 翌1995年は、国割岳のさらに東側の調査を行う予定でした。ところが、調査開始一月前の6月の末になって、好廣が心臓病の手術のため急遽参加できないことになりました。この年から、好廣がひとりで準備をしていたのを改め、京都大学3回生だった筆者(半谷吾郎)らが事務局を作って分担して仕事を行うことになっていました。調査中止もありえたのですが、結局学生事務局が主体となって実施に決定。このときに何度も事務局会議を行って話し合ったことが、現在の調査隊の運営面の基礎になりました。調査マニュアルや詳細な食料計画を事前に用意すること、食事当番(食当)を決めて食当の人に天気図を書いてもらうようにすること、などです。天候の悪化で予定していたよりも調査域が減ってしまいましたが、まずまず無事に調査を終えることができました。

1996年には、西部域のもっとも上部、大川林道終点付近から屋久島第二峰で1886mの永田岳までの地域を調査する予定でした。好廣は屋久島には来ましたが、まだ本調子ではないため車の運転と折衝にあたりました。大学院入試を控えていた半谷に代わり、当時京都大学3回生の谷村寧昭(現在、(株)東レ)たちが事務局を担当しました。ところが、調査開始直前に屋久島を襲った台風のため、調査域に通じる大川林道が崖崩れで不通になってしまいました。結局、予定していた地域での調査をあきらめ、アプローチのよさなどから東部の安房林道沿い、ヤクスギランド-淀川小屋-黒味岳の調査に変更しました。調査地の下半分は永久保生活館をお借りしてそこから車で通い、上半分は淀川小屋、石塚小屋に宿泊して調査を行いました。調査開始後も天候が悪く、晴れていたのは1日だけ。上の調査員は永遠に乾かない世界の濡れと小屋の混雑、下の調査員は毎日の長旅に体力を消耗しました。

 1997年には、大学院に進学し屋久島でニホンザルの研究をはじめた半谷が再び調査隊の事務局を務めることになりました。このころ、大学1年のときから調査隊に参加してきた面々が相前後して生物系の大学院に進学し、その中には半谷だけでなく、座馬耕一郎や早川祥子(いずれも京都大学)のように、サルの研究の道に進む人たちが現れました。好廣はこの年久々に復活。はたで見ていても調査する喜びにあふれていました。この年の調査域は西部域のもっとも上部、大川林道終点・竹の辻から永田岳まででした。霧に包まれた永田岳山頂のヤクシマダケ草原の中にもサルの群れはいました。こうして、1993年以来取り組んできた垂直分布調査は、完成しました。

(4)大川林道終点地域での長期継続調査(1998年-)

 1997年の調査で屋久島西部域の垂直分布調査を終えた後、今後調査隊をどうするかを決めなければいけませんでした。もちろんこの年をもって解散という選択肢もありましたが、これまで営々と築き上げてきたシステムや人脈をすべて捨ててしまうのは惜しい、と誰もが思っていました。この調査隊の最大の特長は、研究者でない一般の人々が屋久島の自然の奥深い部分にかかわることができるということです。そのような「実習」としての側面を残しつつ、学術的な資料の質を維持した調査の形態はないものか、みなで話し合いました。

 結局調査隊が選んだ道は、屋久島上部域の特定の場所で継続的に調査を行い、その地域の群れの分布や出産率などの個体群パラメータを毎年調べる、というものでした。好廣は屋久島のほかの場所で分布調査を行い、それこそ全島の分布を明らかにすることも考えていたようですが、座馬や半谷のような、調査隊の中から出てきた若手のサル研究者には、より質の高い資料を集めることが魅力的に思えたのです。当時大学院修士課程の半谷は修士論文の調査を西部林道で行っていましたが、博士課程進学後は上部域での調査を本格的に行いたいという希望をもっており、「ヤクザル調査隊」の夏集中・広域の調査と半谷の通年・特定の群れの調査を組み合わせることで、西部林道域に匹敵する、屋久島でもう一つの研究フィールドを上部域に作りたいと思ったのです。選んだ調査域は屋久島西部の大川林道終点付近。終点の標高は1052mで、林道と並行する瀬切川を右岸に渡れば、西部海岸から山頂部まで続く自然植生の一部をなすヤクスギ林が広がっています。

 おおまかには新たな目標を定めたものの、最初の2年、つまり1998年と1999年はいわば試行錯誤の年でした。この2年は調査地内の特定の5ないし6群の構成を調べることを目標にしていました。これまでの調査でも群れの構成についての資料はあったものの、資料の質はそれほど高いとはいえませんでした。まずそれぞれの群れをきちんと識別し、カウントの機会をたくさん作ってできるだけ正確な構成を明らかにしようとしました。そのため500m四方にひとり定点調査員を配置、というこれまでのやり方を改め、群れが出そうな場所に集中的に定点調査者を配置し、群れが発見したら随時定点を離れて群れをカウントする、という柔軟な方法に改めました。この方法は一定の成果を挙げ、複数の群れについてほぼ構成を明らかにすることができました。

1998年は調査隊始まって以来の好天続きで、一日も欠けることなく予定通りの調査ができましたが、1999年は1993年以来の悪天候でした。調査中に3回の撤収。夜中にテン場の上に屋根替わりに張っていたブルーシートが吹き飛ばされたこともありました。それでもサルが調査員を哀れんでくれたのか、二日遅れの調査開始初日、台風接近で撤収決定直後、上屋久町一湊から日帰りで調査に来た調査最終日など、不思議にカウントの機会はありました。

 うまくいっていると思い込めば思い込めないこともない調査結果でしたが、いくつか大きな問題点を抱えていました。調査隊は毎年12月に京都で総括会議を行い、その年の調査結果について議論する場を設けています。そのときに、カラスの研究者である松原始(京都大学)ら、サルの研究者ではないベテラン調査員から、厳しい批判が寄せられました。群れの構成を明らかにしているといっているが、現状では前の年と同じ場所にいた群れは同じだと仮定しているだけで、そもそもその群れをきちんと識別しているかどうか怪しいのではないか、カウントも1回だけではほんとうにその群れの全個体を明らかにできたとはいえない、などといったものでした。半谷自身も、素人の一般調査員を群れの構成を調査する要員として使うことには限界があることを感じており、このままでは調査隊の特質をうまく生かしていないと思っていました。一方、半谷は1999年の4月からこの地域で植生や結実フェノロジーなど、生息環境の調査も含めた本格的な調査を開始しており、この地域の一つの群れ(HR群)を、人付け・全頭個体識別して調査すべく準備中でした。上部域に西部林道と並ぶ研究フィールドを立ち上げる計画はその点では順調に行っており、調査隊をその中でどううまく使うかということを、もう一度考え直す必要に迫られました。

 そして迎えた2000年。素人調査員をもっとも有効に使う方法は、やはり「サルがいるかいないか」という基本的情報の収集だという原点に立ち返ることにしました。サルの調査経験のある統括者は従来どおり群れを追跡、カウントして群れの構成を調査する一方、調査法をブロック分割定点調査法に戻し、この地域の群れの密度を毎年比較可能な形で追跡することをもう一つの目標に掲げることにしました。この年も前年1999年に続く悪天候の年で、調査前期は結局一日も調査できませんでしたが、後期6日間の調査は順調でした。それまでの年とは違って半日以上に及ぶ長時間の群れ追跡が可能になり、それとともに群れの中ではっきりと識別できる個体も見つかり、この群れは何群、という群れの識別が確実にできるようになりました。これは半谷が2000年4月から全頭を個体識別したHR群の直接観察による調査を行っていたため、隣接するほかの群れについても輪郭がはっきりしてきたということもありますが、継続調査3年目にして、調査地の地形や分布状況にも慣れ、スムーズに調査が行えるようになったということが大きいでしょう。この年、HR群に加え、PE群、OM群、SY群という四つの群れを識別し、その構成を明らかにすることができました。

 ところで、ブロック分割定点調査法を用いたこれまでの広域調査では、資料を分析するとき、調査域内におそらくこのように群れが分布しているというマルを書き、そのマルの数を調査面積で割って密度を出すというかなりおおざっぱな方法が取られていました。半谷はこのやり方で分析した資料を学術雑誌に投稿して方法上の不備を査読者に完膚なきまでにやっつけられたことがあり、これからずっと同じ場所で同じ方法で密度を調べていくためには、方法論をもっと鍛える必要があることを強く感じていました。様々な試行錯誤の後、統括者による集団追跡の資料と定点調査を組み合わせて定点調査員による発見率を求め、定点での発見数と発見率をもとに密度を出すという新しい方法を開発しました。この方法により、定点単位で集団密度を算出することが可能になり、調査域全体の密度だけでなく、調査域内の密度の変異を求めることができました。大川林道終点の調査域には、自然林だけではなく伐採地も含まれており、しかも伐採のやり方や伐採後の年数に大きな変異があります。この新しい方法の開発は、「森林伐採によってニホンザルがどのような影響を受け、それが植生の遷移に対応してどのように変化していくのか」という新しい魅力的な研究テーマを調査隊に提供することになりました。

 以降現在まで、2000年の調査とほぼ同じ方法を踏襲して、森林伐採がニホンザルの土地利用に与える影響を明らかにすることと、出産率などの人口学的パラメータの年変動を明らかにするという二本の柱を掲げて、大川林道終点地域での調査を継続しています。果実生産の年変動や伐採地での植生の経年変化についての調査も始まり、調査隊によるサルの資料を意味付ける資料の収集体制も整いました。半谷が収集した2年間の生息環境の季節変化の資料、HR群の1年間の直接観察の資料も加えて、この地域は西部林道域に次ぐ屋久島のニホンザルの研究フィールドに成長しつつあります。

 現在の調査隊は、「持続可能」な調査隊であろうとしています。調査の成功の要因は、お金、人、それに天気でしょう。お金については現在は調査員からの参加費だけでほぼ全額をまかなっています。参加者からは1万円ないし2万円を集め、それで食費や保険、下界での宿泊費などをまかないます。人集めは、基本的には過去の調査員の口コミによるものです。定点調査員は経験をまったく必要としませんから、あとはまじめでやる気のある人が来るのを待つだけです。屋久島というブランドのおかげで得をしている部分もありますが、毎年すばらしい調査員が集まるのは、信頼できる人は信頼できる人を連れてくるという正のフィードバックが働いているからでしょう。学生だけではなく、会社を辞めたのを機会に5年ぶりに参加した人、8年間、毎年この時期だけ休暇を取って参加する人もいます。そのような人も含め、多くの調査隊OBOGの有形無形の支援によって、この調査は成り立っています。

(文責・半谷吾郎)

もどる

Copyright (C) 2004 Yakushima Macaque Research Group. All Rights Reserved.