「学生が作った屋久島のサル学」
山極寿一(京都大学総長、1990、1993年参加)
ヤクザル調査隊30周年、誠におめでとうございます。今日は私はそちらにお伺いすることができませんので、ビデオで発表をしたいと思います。
私たちが屋久島で調査を始めた1970年代、ちょっとそれを振り返ってみたいと思います。
ちょっと見にくいかもしれないけど、屋久島に初めて入ったのが1952年の川村俊蔵さんと伊谷純一郎さんです。それから実験用のサルとしてモンキーセンターに供給されていた時代があるんだけれど 、以後20年という年月を経て屋久島で餌付けをせずに自然群の調査をしようという気運が高まって1970年代の中盤から、学生たちが集ってヤクシマザルの調査が始まったということです。なぜかっていうと、70年代までは餌付けのサルが中心だったんですね。餌付けをしたサルは非常によく観察できるもんだから、そこにみんな行って間近にサルを見てサルの社会行動を観察するということをやってました。でも、サルが一日を生活するのは食べ物を探して歩くということですから、それを見ないでニホンザルの本当の生活はわからないんじゃないかという反省が起こって、北は下北から、南は屋久島までいろんな地域で食物の種類に応じてサルはどういう暮らしをしているのか調べよう、そういう人たちが出てきたわけですね。餌付けの影響というのはとにかく数が増えちゃうことですよね。それから、餌を一か所に撒くためにもういる区域が限られちゃって、ニホンザルの群れ生活そのものがすごく大きな影響を受けるということです。ですから、自然の諸条件に従ってサルがどういう風に生活をしているか知りたくなったわけですよ。1952年に伊谷さんと川村さんが行って驚いたのが、とにかく高崎山だとか本土のサルに比べて群れのサイズが小さいということ、遊動域も小さかったことです。そしてたくさんの群れが隣り合って生活していた。それで、20年を経て、我々は餌付けをしていたサルをモデルにするんではなくて、若い学生たちの手で新たな研究フィールドを切り開こうという意欲を持って屋久島に入りました。だから以後ずっと屋久島は、学生たちの手で細々とながら調査は続けられているということなんですね。
1970年代の西部林道。まだ舗装されていませんでした。ただ道路工事の後が生々しく残っていて、まだ緑がそれほど発達していなかった。でも舗装道路がないおかげで、とても動物たちが行き来をする道でした。森の中に入ると人影が少なくて、本土 の森と比べて見通しがよくてサルをとてもよく追えたということです。しかしちょっと山に登ればこのように全面皆伐に近いような伐採跡があって、あちこちに植林の後が見られた。つまり屋久島の森を彩る木々がどんどんと伐採をされていった時代だったわけです。そして、私たちが始めてサルを見て驚いたのが、本土のサルとヤクシマザルは、群れのサイズの違いです。本土のサルの平均は100頭近い。だけどヤクシマザルの、我々が調べた西部林道のサルというのは20頭から40頭くらいしかいない。小さいですね。にもかかわらず、社会性比、つまりオスとメスの数がヤクシマザルでは1に近い 。つまり、ほとんどのオスが群れの中に属しているということが予想できたわけです。
案の定、丸橋さんや黒田さん たちと一緒に仕事を始めているうちに、気が付いたのは群れがまだ小さいうちに分裂してしまうということです。それには群れの外からやって来たオス与していて、発情したメスを連れ出して新しい群れを作るという現象が明らかになった。そして本土のサルでは、めったに見られないんだけれども、群れの外からやって来たオスがその群れを乗っ取ってそして一番優位なオスを追い出してその群れの優位なオスに座るという群れの乗っ取りですね、そういう現象が観察されました。当時私たちは最初村の人の家を借りて下宿をしていたんですが、そのうちに自分たちの家を作ろうということになって、募金をして作りました。最初に建てた小屋がこれです。そしてそこに、丸橋さん、デビット・スプレイグさん、岡安直比さん、そして私の若いころ、この4人で暮らして西部林道に通ってサルを観察していました。屋久島の自然群でいろんな発見があったんですけど、これ今まで言ったことだから除きます。
当時1984年に環境省の原生自然環境保全地域の調査がありました。ここにモンキーセンターとして初めて参加をしました。当時好廣さんが上部域非常に興味を持って、上部域の調査を始めていたし、上部域にいるサルはどんな暮らしをしているのか、我々も興味を持ったんですね。それをサルだけじゃなくて、鳥や植物や昆虫、いろんな動物調査をしてみようと思いました。
これは、永田岳の頂上付近でみられたヤクシカです。この時サルも見られたようですね。この調査の結果は、モンキー の3号ぶちぬきの 特集としてまとめました。ぜひ読んでいただきたいと思います。
ここで取り上げたことは大きくわけて3つ あります。1つは、1952年の川村さん伊谷さんの調査報告書を、これはガリ版刷りの調査だったんですがこれをちゃんと活字にしたということですね。それから、猟師からの聞き込みをして、 昔どのように人とサルが暮らしをしていたのかということを書きました。大竹勝さん、モンキーセンターの学芸員ですけれど、彼らが中心になって、久島を丸ごと博物館にしようという構想を立てて、その企画案をここに載せました。そして、モンキーに特集するだけじゃなくて、屋久島に展示を持って行って特に昔「ドウヤワナ」といってですね、猟師さんたちが生きたサルをとらえるために使っていた罠を、岩川さんという昔猟師だった方に復元していただいて、それを展示しました。最近もそういう展示があったそうですが、まさに何年ほどですかね、30年、40年ぶりかな?ぐらいで復活したということなんでしょうか。
そして、1985年に、日本生命財団の資金を得て、あこんき塾という地元の仲間を中心として外部の研究者、自然保護をやっている人たち、そして報道関係の人たちが集まって、屋久島の自然を学ぼうというグループを作りました。それが、いろんな形となって今に続いております。例えば、手塚賢至さんがやっている足で歩く博物館。これはもう終わったのかな?1990年代の終わりに始まったフィールドワーク講座、これは全国の大学生を集めて、1週間かけて屋久島の自然を学ぼうという講座を開いたわけです。これはもう終わったと思いますけど。そういう流れの一つとして、ヤクザル調査隊があるんじゃないかと私は思っています。また、地元にも大きな動きがあって、1986年に、日吉眞夫さんという方が編集長になって地元の方々が作った「生命の島」という雑誌が作られました。屋久島のことをより広く島外の人に知らせよう。そして屋久島を、自然を敬い、そしてそこで得られたものをきちんと島の財産にしていこう、そういう運動です。
当時やっぱりこれは日本各地で起こっていたことですが、屋久島でもニホンザルによる猿害が多発し始めました。1980年代中盤ごろから増え始めたんですけれど、この青いところが屋久島のサルが捕獲された数です。大体数百頭、毎年コンスタントに獲られなければならなかったということですね。これは今でも続いています。その猿害を防ぐためにいろんな対策が打たれました。それは私たち研究員も随分考えてまぁ本土のサルと同じような方法を試してみたんですがなかなかうまくいかない。で、鹿児島大学の萬田さんと京都大学の霊長類研究所が一緒になってアニマルセンサーを用いた電気柵を考案しました。サルが入ると自動的にセンサーが反応して爆音が鳴るというシステムです。これと電気柵を併用することによって、かなり効果的にサルの侵入を防ぐことができるという確信を得ました。
当時、ヤクシマザルが全島にどれくらいいるのか、特に猿害を起こしている海岸地域にはどれくらいのサルがいるかを調べようという動きが高まって、好廣さんが中心になって1989、90年に一斉調査を行いました。同時に、まず好廣さんの1970年代からの大きな望みだった上部域のサルを調査しようということが始まって、1989年に第一回のヤクザル調査隊がスタートしたわけです。これについては好廣さんが詳しく話してくれると思うので、私は一言だけ。好廣さんが最初にこの1989年の3月に垂直分布の調査をやろうと、その時の意気込みが語られている文があります。まさにここから始まったんだなあと思っています。
そして、翌年90年には日本で国際霊長類学会が行われ、私と丸橋さんがその参加者を屋久島にお連れして、サルを見せ屋久島の自然の美しさを紹介しました。これはとても効果的だったと思います。93年、それから3年後に屋久島は世界遺産に登録されるわけですが、その時訪問した研究者の方々が随分協力してくれたと思っております。特にこの地図で分かりますが、特別保護地域は西部林道から海岸部へ入ってないんですが、世界遺産地域にはそれが組み入れられたということです。その組み入れられた理由としては、もちろん縄文杉のような古い杉があることは屋久島の自然遺産の大きな要素になったんですけれど、動植物の垂直分布というものが非常に重要ということが書き込まれました。
ただ同時に、西部林道はそれまで舗装はされていたんですが4m、5mの幅しかなかったのを、8m道路に拡幅して大型のバスを通そう、つまり、屋久島を観光の島として発展させるという計画が県から持ち上げられました。でも、それをやると、人とサルの接触が増加してしまうし、そして広い舗装道路ができるおかげでそこは砂漠みたいなところですから、動物も渡れないし貴重な垂直分布が切れてしまうということで、私たちは反対を始めた。地元の人たちと一緒に屋久島の自然をきちんと保存するためには本当に道路を広げることは必要なんだろうかということを考え始めたわけですね。同時にこの西部林道を研究者だけでなくて、いろんな観光客の人にもうまく伝えられるように計画を立てることになりました。実際拡幅工事は環境省の審議会で凍結と決まりました。これが1997年でした。上屋久島町は、では、ということで拡幅工事を止めた代わりに西部林道を利用する計画を関係者に考えてほしい、という研究委託をしたわけですね。私たちはこれを、先ほど紹介した屋久島のオープン・フィールド博物館構想として作りました。これには湯本さんという植物学者の参加がとても大きかったと思っています。これは絵に描いた餅ではなく、いろんな形で進めていきたいと思っていて、未だにこの構想は生きていると僕は思っています。ただいろんな人の出入りがあったり、世代が入れ替わったりしながら続いていますので、なかなか具体化ができないというのが今の現状だろうと思います。
研究については、当時屋久島の西部域、海岸域のヤクザルの行動や生態が良くわかるようになってきましたので、それを冷温帯林という落葉樹林のサルといろんな項目で見て比較しようというプロジェクトを始めました。宮城県の金華山にあまり人の手が入っていない森があって、金華山で研究されている伊沢さんたちと協力して、屋久島に集った研究者がほとんどこれに参加して共同でデータを分析し、それを国際学術誌のプリマーテスに掲載をしたわけです。非常に面白いことがわかりました。ぜひ、これは日本語にもなっていますので、読んでいただければと思っております。
そして1999年に屋久島フィールドワーク講座というのも始めました。これは屋久島保全構想の中にもあるんですけれども、全国の学生に屋久島の自然を、自然だけではなくて、人々の伝統的な暮らし、屋久島の人々がどのように自然と付き合ってきたのかということを一緒に学ぼうという試みでありました。毎年夏に一週間くらい、最初は前期と後期に分けてやったんですけれど、大体20人くらいの学生を募集して、書類選抜を屋久島町の人がやりました。簡単な作文を書いてもらって、すごく熱意のある学生だなと感じられた方々をお呼びしました。屋久島町、当時の上屋久町、に協力してもらって屋久島の人に語り部として来てもらい、また屋久島の人々にも私たちがセミナーや講演会をして交流の機会を設けました。その最初の時に登場してくれたのが早石くんです。早石くんはヤクザル調査隊の主要メンバーで今も活躍していると思いますけれど、何人か非常に懐かしい顔が写っております。彼らは今何をしているんでしょうか、ということも私は懐かしく思い出しますが、最初にフィールドワーク講座に参加してくれた人々です。早石くんはアシスタントとして入って来たんですけどね。
私は、同時に、1990年代、80年代終わりから90年代にかけてアフリカでゴリラの調査をしていました。ですから、80年代90年代というのはアフリカと日本を行ったり来たりする暮らしだったんですね。どちらも同じことをやっていました、実は。アフリカにはゴリラが4種類おりまして、私が当時やっていたのは、緑色で書いてあるヒガシローランドゴリラというものです。ここは標高2000mくらいの山で、屋久島と非常によく似た植生をしております。もちろん海はありませんけれども。で、同じといったのはカフジ(アフリカの調査地)の方が10年以上早く世界遺産に登録されているんですね。屋久島でもアフリカでも無数の地名が現地語でつけられていた。つまり人々はその森を自分たちの縄張りで呼んでいたわけですね。そのまま僕たちも使っています。
ところがアフリカではですね、屋久島よりもっと急速な自然破壊が進みつつありました。しかも経済状況が悪くなり政治情勢が悪くなって内戦が起きるという事態に陥っています。でも、カフジと屋久島の自然観の共通点っていうのがあるんですね。奥に山があり森がある。自然とは人知の及ばない世界である。人々に幸をもたらす源泉である。そしてそれを忌避するんではなくて 自然と共存していこう、そういう思想のもとにこれまでずっと共存してきたところです。
カフジでは現地の人と協力してあこんき塾を作ったように、ポレポレ基金というNGOを立ち上げました。そのポポフのメンバーには屋久島に来てもらって、屋久島でエコツーズムをやっている人たちとシンポジウムをやりました。この時は山口県立大学の安渓さん、私の同僚の人類学者、彼がいろいろアレンジをしてくれて、いろんな人たちとアフリカの人たちが交流することができました。特に上屋久町では音楽祭が行われていたので一緒に歌を歌って、そして屋久島の人もアフリカの人もみんな裸足になって瀬切の原生林を歩くということをやりました。これはとても評判がよくてアフリカの人たちはまさにこの大地で屋久島とアフリカがつながっているんだということを感じたという風に言っていました。
21世紀になってからも屋久島とアフリカの付き合いは続いていて、私たちがガボンでゴリラの調査、そしてエコツーズムを目的とした保全の調査を始めた時も、この真ん中に移っているのが本郷君ですが、ガボンの人たちを屋久島に連れてきてそして屋久島のいろんな、自然保護だとかエコツーズムのことを学んでもらいました。手塚さんと一緒にヤクタネゴヨウの保全調査に参加をした時の様子です。
屋久島とアフリカを渡り歩いて自然からたくさんのことを学びました。やっぱり生物というものには個性があるということですね。私たちは分類名で呼びますけれどもそれぞれ一個体一個体に違う個性があるんだ、これはサルだけじゃありません。植物だってそうですよね。それをまず目で見て五感で感じて知らなくちゃいけないってことです。その上で同じような生物が違う生物とどういう風に付き合ってきたのかという歴史を知ることが必要です。そして、時間的な流れだけじゃなくて空間的な流れ、それでも一つ一つの命はお互いにつながっているんだ。そのつながりが日々変わっていく、動いていくということを知るためにはそこに居続けなくてはならないということなんですよ。そしてそこに自分も繋がっているんだということを、僕らはそこにいて知ることができる。これが学べることだと思っています。
ヤクザル調査隊にこれから期待したいとことは、私たちが最初に思ったように、いつまでも学生主体の体制を続けてほしいと思います。もちろん半谷さんを中心として、今やもう第一線の研究者になった人たちが元気よくやっているわけですけれど、でもまさにアクティブな活動をしてくれているのは学生だと思うし、学生の意思を常に反映させながらやっていただきたいと思います。そして、私たちが始めたように地元の人たちをぜひ仲間に入れ、地元の人たちの財産でもある屋久島というのを世界に広める努力をしてほしい。これからも屋久島に関わり続けて、自然の遺産というものを大切しながら豊かな未来にしていくんだ、これから日本が直面していく未来というものをここから想像していくんだという気概を持ってほしいと思っています。 そしてそれを世界に発信すること。それを我々は昔、屋久島方式といいました。これからも屋久島方式というのは強い力になって世界で大きな役割を発揮すると思います。
主役はあなた方です。ぜひ活躍をしてください。終わります。