パネルディスカッション

早石: パネルディスカッションに移りたいと思います。武蔵大学の丸橋珠樹さんから、自己紹介を含めたところから、口火を切っていただきたいと思います。

丸橋: みなさんこんにちは。今日、お話を聞いて、つくづく思ったことは、30年間、1501人、みんな生還したということですよね。これ、一人でも死んでいたら、そこで途切れるわけですよ。そういうマネジメント力というべきか、参加した人々の協働、そして安全こそが第一というのが、実はこの調査を続けていく上で一番の力だったと思います。そういうことを伝統としていくということが、本当に命を守るということで、それが自然を守ることにつながっていくし、人が、好廣さんの言葉を借りれば「化ける」という、「こんなところに来ても生きて帰れるんだ」と、「おいしいご飯も食べれたよ」、そして全員で6トンものご飯を食べたよというですね。6トンと言いますと、日本人は今平均で1年で60キログラムの米を食べますから、100人分になりますね。つまり、1年間で100人が食べたお米を食べたことになるわけですね。わたし、途中でちょっとずつ名前が出ましたけれど、もう一度好廣さんのレジュメを出していただいて、その頃の思い出話をしながら、ヤクザル調査隊がどんなふうに育ってきたということに対する、短いコメントをできたらと思います。

1973年から、ニホンザルの地域個体群研究会が屋久島で研究しようということで、調査が始まりました。わたし自身は、その翌年の1974年から参加したのですが、1973年に参加していた上原重男さんから、「丸ちゃん、屋久島で、サルを人付けできると思うよ。やってごらんなさい」と言われて、やることになったんですね。私が目指したことは、ごく簡単なことなんです。振り返ればいつも君がいる、よきストーカーになろう、ということです。ところが問題なのは、サルが振り返っても、私がいないんですよ。それくらい山が険しいわけです。スライドの中にもあったかと思いますが、たまたま調査地の中に工事場があったものですから、そこに住んでいた群れを工事場群と呼んでました。短く書くとKOです。文字通りKO、ノックアウトされて、それではわたしの修士課程の仕事は終わりませんので、振り返ればいつも君がいるというですね、サルと自分との間の距離をいかに縮めるか、簡単に言えばサルのように森を歩けなければ、振り返ってもだれもいないということになってしまいますよね。そういうことを繰り返し、森を知ることによってサルに近づく、振り返っても何も悪さをしない、あれはシカとは思えない、人なんだけど害はなさそうだということを、確信させる、それこそが人付けということですが、逆に言えば、自分自身が森を知る、その深さこそが、サルを知る第一歩になる、そういう研究をしたわけです。

もうひとつ、山極さんが言っていましたが、「屋久島方式」です。実はあれは、夜の部が一番大切なんですね。昼間は孤独な研究で過ごすわけですが、夜は焼酎瓶が必ず手元にあるわけです。松原さんの最初のスライドにも、焼酎瓶を抱えていた写真がありましたが、夜は、永田の人たちを中心に、そういう中で、地域の中で研究するというのはどういうことなのか、といった、さまざまな語り合いをする、そういう暮らしを長く続けていました。ある年の夏、私と山極さんと黒田さんと3人で、2か月くらいサルの調査をしました。そして焼酎を飲んでは瓶を床下に入れていたんですよ。そうしたら家を貸してくれていた大家さんに、「さすがにちょっと多いんじゃないですか、片づけなさい」と言われてまして、当時焼酎瓶1本10円で引き取ってくれましたけれど、全部数えたら80本くらいありました。それでまた焼酎を買って飲むという、そんなことをしていました。そういうことをしていて、私がよく付き合っていた屋久島の人の奥さんに言われたんですよ。「あんたたちが来るようになってから、屋久島はすっかり変わった。どんどん悪くなっていく。どうしてくれるんだ」と言われたんですよね。わたしたちが研究をして、それを日本全国に、あるいは世界に発信することによって、人々がどんどん増えていく、増えていくその先に、どんなふうに変化していくのか、自分たちには見えない、自分たちが参加できる変化じゃないんじゃないか、あなたたちが作り上げてる変化なのか、ほんとうにそうなのか、じゃああんたたちが屋久島にできることは何なのか、ということを問われたわけです。そういうことを深く考えていくことが、結局のところ屋久島方式ということで、それを支えてくださったのが、会場にいらっしゃいますが湯本さんなんですよね。何が支えてくれたかと言って、彼は家族で暮らしていたんです。私たちは、研究者としてひとり営々としていましたが、湯本さんはご家族と一緒に暮らしていく中で、人々の考え方、あるいは研究者に対する理解のしかた、そういうことを理解することこそが、私たちの生き方に深くつながっていったと思うんですね。

もうひとつ、山極さんも言っていましたが、世界は地名にあふれている、ということですよ。地域の人は、どんな深い森を歩いても、必ず地名がつけてある、それを日本の政府は、第何林班、第何小班、と番号を振って、今年はこの林班を切るよ、というふうに、数字や記号に切り替えていく、そういうことにどう抵抗していけばいいのか、それをいかに止めていくのか、ということが、私たちの大きな流れになりました。それを支えてくれたのが、屋久島方式の、最初に屋久島でニホンザルを見てみようじゃないか、といって、多くの人数の学生たちが屋久島に集まって、西部林道を毎日行き来しながら、サルのセンサスをして、「にほんざる」という雑誌を作る、その営為こそが、現在まで30年続いている、ヤクザル調査隊の努力にも、直接つながっているとおもいます。この方法は、日本の各地の、ニホンザルの問題、あるいはニホンザルと外来種との交雑の問題を解決するときに、基本的なデータを取りたい、そういうときにも、利用できる方法にもなりました。

みなさんも、このお話を聞きながら、若者は、命を懸けて仕事しているんじゃなくて、屋久島が命を磨く場所だったんだということ、ぜひ、私たち学者が、若者を労働者として、研究労働者として、こき使う場所なんかであっては決していけない、それは、私たちの大先輩である伊谷純一郎先生がおっしゃっていたことなんですが、私たち20代の若者こそが、新しい学問を作っていくのだという、そういう伝統を、私たちがうまく引き継げていることこそが、この調査隊が、安全で、楽しく、楽しくかな、あまり楽しくなかったのかな、苦しかった人の方が多かったかもしれませんが、その苦しみが、自分の人生の中で楽しみに変わっていく、その記憶こそが自らを育てていく、そして人とのつながりこそが自らの人生に厚みを増していく、たぶんそういう出会いの場を作っていける、そういうことができたということで、わたしは本当にうれしく思っています。だからこそ、これからも屋久島方式で、学生さんたち、若い人たちこそが、自らの責任で、世界を切り開いていってほしい、ということを胸に、常に屋久島をフィールドとして続けていって下さったらということを、今日のみなさんの発表を聞いてみて思うことです。とくに、(本田さんの)800キロも歩くのか、と、思いません?あの勢いで行ったら、彼の研究が終わるころには、鹿児島ですよ。そのうち屋久島まで到達したいというのが、彼の本当の願いじゃないかと思います。そういう長期連続観察というものの持つ意味、その積み重ねの持つ意味こそが、あの(歩いた距離の)地図が長くなっていく、それをひとりでやっているものもあれば、1501人全員でやっているものもある、そういう個人と集まりというものが、うまく組み合って、屋久島という世界を理解し、そしてそれが訴えられることで、屋久島も守られていく、そういうようにこれからもつながっていくように、わたしは66歳になったので、残念ながらあんな激しい山登りはもうできませんが、見守るということができたらと思っております。長くなって失礼いたしました。

早石: みなさんいろいろ聞きたいなと思うことがあると思うんですけれども、まずヤクザル調査隊はサルのことをしっかり研究してきたグループですので、サルの話から先に質問いただいて、その後に1501人の人がどんな風に集まってきたのか、どんな風に過ごしたかというヒトの話に移りたいと思います。
質問者: サルが怖いと思ったことはありますか?
早石: 私は怖くないですよ。(会場笑いに包まれる)
丸橋: 私は怖い目に遭ったことあるんですよ。人付けをするときに、だんだんサルが慣れてきて、私が安心したんだと思うんです。赤ちゃんが頭の上にいるのはわかっていて、木を揺らしたわけではないですが、通り過ぎた時に、その頃でしたけど、オスもメスもコドモも全員私に向かって驚かせるんですよ。ほんとびっくりしましたよ。群れって結局赤ちゃんを守るためにいるんだって。当たり前なんですけど、身をもって感じるような瞬間があって、あの時本当にサル怖いなと思いましたよ。でも襲われないような距離感を保つくらいのストーカーだったので助かりました。でも悪いストーカーだったら噛まれていたと思います。そんなこともあります、稀ですが。
好廣: 私も実は頭の上に子ザルが乗ってきたので、それを手で振り払おうとしたら、ガブリと噛まれてしまいました。子ザルは親にとっては大切な存在なんだなとつくづく思いました。
半谷: 怖いと思ったことはないですね。(会場笑いに包まれる)人間の方がずっと大きいので、サルの方が我々のことを怖いと思っているはずです。なので私たちが怖いと思わなければ、大丈夫です。ただそれは丸橋さん達が屋久島で慣らしてくれたおかげかもしれません。
本田: 私も同じく怖いと思ったことはないです。大抵の場合、私は山に行くとサル達の方が怖くて逃げていくので、それはちょっと悲しくなります。
松原: 僕の専門のカラスについては怖いと思ったことないんですけど、サルは一度調査中に、林道に上がってきたアカンボウのサルが僕の目の前に出てきて勝手に腰を抜かして悲鳴を上げたことがありまして、その瞬間に母ザルが飛んできて、メスの兄弟達も飛んできて、さらにはオスザルもすべて出てきて怒りまして、怒り狂ったサルに取り巻かれた状態で20m下がるって経験があります。あれはさすがに怖かったですね。
早石: ありがとうございます。僕はサルのうんこしか研究してないので、サルは怖くありませんでした。どんどん質問をお受けしたいと思います。

質問者: はじめまして。〇〇大学の××と申します。ヤクシマザルとニホンザルはちょっと体つきで違いがあって、ニホンザルよりヤクシマザルの方が体毛が長いということを聞いたのですけれども、それはなぜでしょうか。
好廣: 体毛が長く見えます。深くみえるのですが、例えば志賀高原や下北の方が、ヤクシマザルよりも長いと思います。ヤクシマザルは南にいるサルなので、割合体毛が密じゃないんですね。北の方のサルは体毛がびっしり生えて密です。ヤクシマザルはひょっとしたら、スカスカで毛が密ではないからその分深く見えるのかもしれません。
早石: ありがとうございます。私も(髪の毛が)ちょっとスカスカしつつあるのでいい質問だなと思います。(会場爆笑)

質問者: 2002年に参加した〇〇です。30周年おめでとうございます。夏の一定期間とはいえ、大勢の人間が長年に渡って山に入っていくことで、サルから人間に対する行動や反応に変化はあるものでしょうか。
本田: 我々が標高1000mほどの上部域で調査している中で、半谷さんが調査しているのが HR群、もう一つがOM群という群れで、その群れはヒトに対する挙動が違います。HR群は半谷さんがずっと追いかけているのでヒトに慣れています。しかし、OM群はすごくヒトを怖がっています。調査中は林道上でサルが通るのを待っているのですが、初日なんかはヒトに気づいてなくて林道に出てきてくれるのですが、だんだんと出てくることが少なくなってきて、クーコールなどのサルの鳴き声もどんどん小さくなっていってしまします。しかし、毎年そのような感じなので、長期調査をして我々が影響を与えているというよりかは、その群れ(HR)がもともと慣れていて、片方(OM)が慣れていないという要素が強いとは思います。
半谷: 2002年に参加された頃に、OM群の調査でした苦労と同じような苦労を今もしています。なので慣れるということはないですね。20年前に比べて人間に対する反応が変わったとも思えないですね。

質問者: 今日は面白い話をありがとうございました。サルを長く見ていると、サルが何を言っているのかわかったりするものですか。(半谷苦笑い)
好廣: それぞれ違うかもしれませんが、わかりません。例えば餌場だと非常に近いところで見ることができるので、こういうふうに思っているのかなということを推察できるのですが、屋久島の場合は残念ながらそういう調査ではありません。基本的には近づいたら逃げてしまいます。なのであまり感じられないです。
丸橋: サルが何を考えているかではなくて、私がサルに対して何を考えているかということを投影して、それに応えてくれる、そういう嬉しさを、虚構ですが感じたい。でもそういう気持ちの中で聞くと、応えてくれたみたい、例えば、クーって鳴いてくれると心が通じたような気がします(半谷首振る)。しかし、彼らから語りかけて、私がサルのようには応えられないのですね。そういうやりとりの微妙なところを感じることは、研究とは別の楽しさ、確かに私はあると思います。だから時々応えてくれないかなと思ってクー。ありがとうございます。

質問者: 今日こういう話を初めて聞いたので、興味深く聞かせていただきました。ありがととうございます。その中で、群れが大量に死んでしまうという話がいくつかあったと思うのですが、どういうことが起きたのでしょうか。
半谷: 1999年の冬に、西部林道のとある場所でたくさんのサルが死んだということがありました。それは多分病気が原因だったんじゃないかなと思います。そういう突然の大量死による群れの消滅というのが40年ほど調査して一度ありました。それ以外に群れが消滅する、つまり小さな群れがコドモを産まなくなってだんだん群れのサイズが小さくなるということがこれまで6回ほど確認されていると思います。それは小さな群れが割を食うっていうメカニズムが原因だと思います。そういうこととは別に、突発的にたくさん死ぬこともあるということですね。

質問者: 長年にわたる興味深いお話ありがとうございます。私は食べ物による進化のことについて興味を持ちました。日本人が海藻をずっと食べていたら、海藻を分解する消化酵素が見つかり、日本人の半分にその消化酵素が見つかったということがありました。そこで、特有のものを食べることによって、食物のよる進化、変化があると思います。ヤクザルについても、島の植生に関して特異的な食物を食べることで、他の地域のサルと比べて消化酵素を持っているということはあるのでしょうか。
半谷: 腸内細菌のことをおっしゃっているのかと思います。海藻には、普通の動物では消化できないような炭水化物が含まれています。しかし、日本人は海藻を普段からよく食べているので、日本人のお腹の中には海藻特有の炭水化物を分解する細菌がいる、アメリカ人にはいない、という結果があります。同じようなことがニホンザルでもあるのではないかと思い、わたしの研究室では、今、腸内細菌の研究に、一番力を入れています。屋久島の海岸と山の上で7kmくらいしか離れていません。そんな非常に近いところで全く違う物を食べているので、それは腸内細菌に影響を与えているといいますか、逆ですね、サルが場所ごとに違うものを食べて消化するのに、腸内細菌を利用していると考えて研究を始めています。最近の実験で、山の上と下でそれぞれ新鮮なサルの糞を取ってきて、それを葉っぱの粉末と混ぜて発酵実験をすると、葉を多く食べる山の上のサルの糞はかなり発酵しました。何らかの違いがあると思いますので、細菌の種構成を比較し、それから遺伝子構成を比較しています。研究途上なのではっきりとはわからないですが、違いがあるということはあります。
早石: 非常に興味深い最近の話題を聞くことができました。ありがとうございます。

質問者: 2000年に参加させてもらいました〇〇と申します。自分がいた雨の毎日が、みなさん研究のなかでこうやって生かされているんだということがわかったので、20年がかりですけど、参加することができてよかったです。お聞きしたいのは、サルの一生が何年くらいなのかということです。また、半谷さんの発表の中で群れの移動が上部域ではほとんどなかったということだったのですが、群れの構成員の入れ替わりはないのでしょうか。
半谷: サルは野生状態だと20数年は生きると思います。私が屋久島の上で2000年に調査を始めて、その時生まれたアカンボウのメスが2頭、今19歳になります。まだ元気ですね。もうちょっと生きると思います。私の調査に関して言うと、ニホンザルの一生はまだカバーしていません。西部林道では40年ほど調査されているのですが、あちらの方は一つの群れが次から次へ消滅してしまうので、逆に2000年時点で調査されていた群れは今、残っていません。一般的にはニホンザルは20数年生きるはずです。
丸橋: 平均寿命が20数年ではないですよ。初期死亡率は非常に高いので、最初うまく生き延びたら20数年生きるということです。初期死亡率、つまり赤ちゃんから1歳になるまでにどのくらい生き延びれるかという厳しさは環境によっていろいろ変わってきます。しかし、その後に関しては、母や群れのケアがあったりして20数年は生きることができます。日本人でもみなさん生き延びてこれからも長く生きるだろうと、そういうことなのかなとは思います。

質問者: 先ほど群れがアカンボウを守るための存在だというお話だったと思うのですが、実際ニホンザル同士、群れ同士がコドモを、巡って争うようなそういう現象はあるのでしょうか。
半谷: ニホンザルでもわずかに子殺しの事例が報告されています。オスが自分の子供ではない、アカンボウを殺すということはあります。それは多くの場合、オスは群れをどんどん渡り歩くので、前の年の交尾期である秋にその群れにいなければ、その翌年に生まれたアカンボウは自分の子供ではないのは確かなのですが、殺した事例で父親の可能性が全くないのは一例だけだったように記憶しています。しかしそれは非常に稀なことなので、本当にニホンザルのオスが普段そういうことを考えているのかというとわからないです。潜在的にはそういう危険はあると思います。
丸橋: (冒頭の質問に対する答えについて)捕食者に対する防御機能を引き継いでいるんだろうということで、群れの対立の中でアカンボウが殺されるといったことを言ったわけではありません。空からの天敵や、今日本にはオオカミはいませんけども、最近まで普通にオオカミはいたわけですし、そのような捕食者が普通にいる環境なので、私たちが屋久島は自然ですといっても、オオカミがいない環境で研究をしているわけですから、本当はその部分をどう組み込んでいくのかということは常に意識しないといけないと思っています。

質問者: 祖父母が住んでいる地域が割と野生のサルが出やすい地域で、少し前に祖母がお墓参りをしているときにニホンザルが立っているのを見たのですが、私もそういう出来事があり、その場合はどのような反応をすれば穏便に済ませられるのでしょうか。騒いだりすると良くないなどのアドバイスがあればよろしくお願いします。
半谷: その地域としてはやっぱりそうやって人がいるところにサルが出るのはよくないと思いますので、サルが出たら追い払うようにしたらいいと思いますが、そういう地域で、高齢のお方が一人でサルに立ち向かうということは危険がありますので、周りに頼りになる人がいない場合はそっと立ち去るのがいいかなと思います。もし若くて元気のある方だったら追い払っていただいた方が、サルの住む場所と人の住む場所を分けていただいた方が、お互いのための幸せになると思います。

質問者: 目を合わせてはいけないというのは本当でしょうか。
半谷: それはそうですね。目を合わせると威嚇されたと思って怒られるかもしれません。あるいは逆に、サルの方が人間を怖いと思えば、目を合わせることはサルを追い払うといことでは効果的かもしれません。
早石: 今度は実演して確かめてください。手を上げたりするとなお体が大きく見えるのでいいですよね。次にお願いします。

質問者: 2014年に一回参加した〇〇と申します。そのとき参加したときは全くそういうことをしていることをわかっていなくって一週間風呂に入れなかったという鮮烈な記憶しか残っていないのですけれど、私の時はシカフンも調査していて、サルがシカにだけではなく、シカがサルに影響を及ぼすことはなにかあるのでしょうか。ほかの動物種がサルの住んでいるところとか食性に影響を及ぼしていることがあったら教えていただきたいです。
半谷: シカがサルに影響を及ぼしているとしたら、多分それは、シカが植物をいっぱい食べて環境をがらっと変えてしまってそれでサルにも影響が及ぶ。そういうことだと思います。直接的なことを言うと、むしろ逆のことの方が多くてサルがシカに影響する、西部林道によくあることですが、サルが木の枝の上まで行って食べていて落とした枝をシカが集まってきて食べる。シカは木の上に届きませんから。また、サルの落としたウンコをシカが食べる、そういうことが直接的にはあります。直接的にはほとんどサルからシカだけで、シカからサルはありません。
早石: サルのウンコ研究者にとってはシカは割と困った存在です。それほしかったのに食べられちゃう‥。質問後方の方お願いします。

質問者: 2006年と2007年に参加しました、〇〇と申します。皆さんのお話を聞いている中で私自身も懐かしいなと思いました。半谷さんの発表の中で、海岸域はエサが多いから小さい群れが潰されてしまう、また大きい群れが台頭する一方で山の方では平和に過ごしているというようなお話がありましたけれど。実際にサルの性質として海岸の方が荒くて山の方は穏やかといった傾向はあるのでしょうか。
半谷: 僕は山の上のサルに肩入れしているので山の上のサルの方が好きです。優しいような気がします。ですが、まあ多分そういうことはないでしょうね。公平を期すために西部林道で研究している栗原さんや大谷さんにお聞きしたいのですが。
早石: 大谷さんお願いします。
大谷: 今日司会をするはずだった大谷です。サルの気性に関してですけれども、個人的な印象では山の上の方が悠長に暮らしているというような気はしております。食べ物を食べるためにということを考えても上の方の標高の高いところのサルは周りにとにかくたくさんあります。たくさんあるけどひとつひとつの栄養価が少ないのでひたすら周りにある葉っぱを口に運び続けるという生活をしています。一方で標高の低いところのサルは価値の高い食べ物を常に探しているという状態なので、どうしても競争意識が働くというような気がします。あとですね、あまり今回の話と関係ないかもしれないですけれども、海岸の方のサルってけっこう人からエサをもらえる確率が高いですよね。そうすると人がおいしいものを持っていると学習してしまい人に対して非常に攻撃的になるということがあって、それによって下の方のサルの方が攻撃性が高い様な気がしています。
早石: 淀みなく解説していただきありがとうございました。ちゃんと喋れるやん‥まだ会場には西部林道のニホンザルの研究をしている方がいらっしゃったと思うのですが付け加えることはありますか。
栗原: 栗原です。なんか個人的には別にそんなに変わらないと思うのですけれどね。今の話を聞いていると何を食べるかというのは、結局どれだけせわしく動くかという活動量につながるという話で、人にエサをもらうというのはあくまで人に対する性格や関わり方であって、果たしてサル同士が関わるときにどうかというとあんまり変わらないのではないかなと私は思っております。
早石: ありがとうございました。ではそろそろですね、いえまだ時間はあります。お願いします。

質問者: 先ほどの海岸部の話に関連するのですけれど、屋久島にだいぶ人が訪れるようになったと思うのですが、かなり観光客とかで餌付けが進んでいるのでしょうか。というのも東京の西側に住んでいますがすぐ近くにサルの群れが出てきたりするのです。はっきりした猿害が地元で問題になっているのではないのですけれども、餌付けに対しての注意みたいなことがそこではそれほど無いんですよ。神奈川や千葉の方ではタイワンリスで害があるので餌付け禁止条例とかかなり頻繁にされているのですけれど、東京の方ではサルが近くに出てくるのも関わらずあまり餌付けに関してのキャンペーンがされていません。屋久島ではそれはどうなっているかお聞きしたいです。
半谷: 私が大学院生だった1990年代の後半に比べれば餌付けは減っていると思いますね。それは餌付けは良くないというキャンペーンを行ってその成果だと思います。やっぱり屋久島に来る観光客は意識が高い方が多いのではないかなと思います

早石: もう一度どうぞ。
質問者: ありがとうございます。私は一度子供の頃に箕面の滝に行ってそこのサルに襲われたことがあります。エサをもらっていて非常に凶暴になっていました。あまり人間が関わると良くないのだなということを子供ながらに感じて、そのときサルはヘビが嫌いだからロープのような長いものをヘビっぽく見せるとサルが逃げていくと教えてもらってやったらてきめんに効いたのです。それで人間とかサルとかは扁桃体の中にヘビとかそういったものを恐れる恐怖システムがはじめからプログラムされているということを聞いたことがあって、扁桃体をつぶされたサルはヘビを怖がらなくなってしまうということを、ロボトミーされたサルはそういうことがあるということを聞いたことがあります。屋久島というのはほかの島に比べて毒ヘビとかヘビは少ないと思うのですが、ヘビに対しての反応はヤクザルではどうなんでしょうか。
好廣: 屋久島には九州と同じヘビがいます。しかも今はちょっと少なくなってしまったんですけれどすごく立派なアカマムシがいまして僕は実は昔とって食っていたのですけれど、残念ながら最近はヘビが少し減ってしまって。それに対してサルが恐れるということは確かにヘビを見てパッと気になる程度で、しかしそれを恐れると言うことは無いと思います
丸橋: もしね、サルたちがヘビというものを恐れていたら、多分発見したサルが警戒音を鳴いていわゆるモビングという形でみんなにさらに伝えたりさらに攻撃したり、あるいは警戒したりすると思うのですが、そういう行動は私も出会ったことがないので、一匹一匹が「あ、ヘビいる」我々も「あっ!」ってなる、こんな感じかなと思いますね。生得的にヘビというものを我々が怖がりますか。皆さんこの中でヘビ怖いって思っている人、手を挙げるてもらえますか?そんなにいらっしゃいませんよね。だからこれは経験が少ないからなのか、ヘビというものをあまりに自分たちの文化の中で言葉と映像で見過ぎてたいしたことないよという経験が深いからなのか。そういう意味では結局は出会う回数の中でどれくらいですね、危険な目に遭ったりあるいは親たちがまたは兄弟たちが警戒音を出したかみたいなそういうことに依存するということには思います。でも私はそういうデータを持っているわけではないです。希なことですから。

早石: ありがとうございます。そろそろですね皆さん人のことにでも気になったことをどんどん聞いて質問していってほしいなと思います。どうしてそんな若者が大挙して‥というかたくさんの人が屋久島に行ったのかということをですね気になる方はいらっしゃると思います。いかがでしょうか。人のことについても質問どうぞ。

質問者: 2002年から参加してます〇〇です。皆さんにお聞きしたいのはですね、皆さんがこの調査隊の調査員の中で一番こいつは強烈だなと、強烈という意味は皆さんにお任せしますので強烈だなという人を皆さんに挙げていただければと、丸橋先生についてはもしかしたら調査隊だけではなく屋久島の中で出会った方ということでもいいかなと思います。お一人ずつ言っていただけると面白いかなと。
早石: では松原さんからお願いします。
松原: 一番強烈というか印象的なのは好廣先生なんですけれど。配属された年に好廣班でまず好廣さんの後をくっついて歩くという経験をしましたので、目の当たりにしながら理解できないことが2つあったんですがね、ということを言いたいのですがそういう答えは求められていないと思うので別の方向から言うと99年に私の班にいた某氏がなぜヤクザル調査に来たのかもわからなければどこに所属している人なのかもわからず、何しているんですかって聞いたら一言「パチンコ」って言った人がいます。よくわからないので一週間パチプロって呼んで、言われたまま黙って帰った人がいます。あれがちょっと最強かもしれません。
本田: はい、非常に何か難しい問題で歴戦の強烈な人たちがいすぎて誰がトップなんだろうってすごい迷っているんですよ。
半谷: 強烈ですか、まあ強烈だったからこうなったかなと思うんですけれど、98年に来た私の妻ということにしておきます。
好廣: 1995年にその年の調査員がみんな整ったところで心臓弁膜症で手術しなくちゃならないということになりまして、それで入院したんですけれど、そのときに前年に国割岳の垂直分布調査をやっておりまして、その年までは私が代表と事務局長を兼ねておりましたので、ものすごく非能率な運営をしてしまいました。これはアカンなあと思いましてその年にここにおられる半谷君とかあるいは会場におられる平田君とか京都女子大学の女性とかに、事務局をお願いしました。わたしが入院するときに、今年やるかやらないかも含めて君らで決めてくれよと言い残して手術しました。手術終わって彼らに会って、びっくりしました。なんとまあたくましなってですね、堂々と意気揚々と自信にあふれているわけです。ええっと思ってびっくりしました。なんと短い間に若い人はこんなに変わるんだなと感動しました。それが最高の感動でした。山の上ではあったことについては、先ほども出ましたけれど、1994年のカンカケ岳の調査で山の上でそれぞれ泊って5日間調査をしていました。私の見つけていた水場はチョロチョロだったんですけれど、その上にシカの死体がありました。それを毎日沸かして飲みました。それが調査の中では一番強い思い出です。以上です。
丸橋: 我々がまだ屋久島で始めた頃は非常に牧歌的でしたので、神様もあんまり逃げなかったんですよね。だから私なんかは未だによく思い出すのですが、神様らしいものに出会ったこともあるんですよ。で、もっと変わった人はですね、Yの字ですよ。先ほどビデオでしゃべっていましたが、あの人は竜宮へ行ってみたいと言って大酒を飲んだ後、カメが上がってくる浜に行って、「俺カメに乗ってきたんだ」って言うんです。それはいいのですよ、そんなこともあるんです、私は一緒に行ったのではないんですけど。ひっくり返そうと思ったって言うんです。ところがカメはひっくり返らんといって大格闘した末に足の裏から血が出てるんやって帰ってきたんですよ。嘘やろと思って翌朝見に行ったら血染めのサンダルが浜に転がっていまして、そして人間のサンダルとカメの歩いた跡があって、これは幻想ではなく本当だと。やっぱり山極さんっていうのは変な人で、そのまま竜宮城に行ってたらああいう姿にはならないんですけれど、そういうふうに心持ちが少しずれていた人が多かったように思いますね。そういう人と自然のなかに畏れや憧れみたいなものがは多かった。はじめの頃はそうだったと思います。
早石: ありがとうございます。この反論のできない山極さんのことをそんなに言っちゃっていいのでしょうか。お願いします。
本田: お待たせしましたね。なんかもう凡庸な回答になるんですが、半谷さんが一番すごいなと思いまして。2013年の私が初参加した年にすごい大雨が降って川が増水したことがあって、それで調査を昼頃終了し撤収することになったのですが、その後もまだ雨がけっこう降りそうだったので増水した川を前に、瀬切川の右岸に沿って調査していた私たちは待っていろと指示があったので半谷さんを待っていました。そのときはすごい濁流で人間に通れるのだろうかと思っていたときに半谷さんが対岸から現れ、木の棒を持ってそれで足場を突き刺して確認しながら行くんだぞ、と濁流の川を渡る方法を教えてもらいました。そのとき人間の可能性を感じてすごいなあと思いました。半谷さんの可能性を。
半谷: ちなみに本田くんが大学院入ったら山頂で研究やりたいっていうから、入学の直前に僕も久しぶりに宮之浦岳まで登ったんですけど、もうたいへんで、こんなところで調査は絶対やらないと思いました。
早石: 類は友を呼ぶのでしょうか。

質問者: お話ありがとうございます。2009年から参加した〇〇です。皆さんにお聞きしたいのは、サル、松原さんであればカラスだと思うんですけども、研究者になろうと思った理由やきっかけ、研究者でよかったと思うことぜひ教えてください。
松原: きっかけですか。研究に踏み込んだきっかけは大学4年生の時に卒業研究で動物行動学の研究室行って、「お前好きな動物あるか」って言われてカラスって言っちゃって、そこから世間話が始まって5分で決まったという、考えてみたらそれだけですね。
本田: 私は院試の時に山に行きたいですと言って、なぜか受かっていました。山に行き続けて調査をして、無限に山にいけるやん!みたいな感じでした。私が泊まっていた鹿之沢小屋は一般登山客も来るような小屋で、いろんな人たちと夜はお酒を飲みつつ話ができて、誰にもできない経験をしたかなと思っています。
半谷: 野生動物のことを知りたいなと思って京都大学に入って、ヤクザル調査隊に入って、結局それが今の人生にいたるわけですけども、最初は屋久島の魅力、ニホンザルの面白さ、ヤクザル調査隊の楽しさ、全部渾然一体のような感じでした。それでなんとかうまくいったのでそれは幸せでした。大学の教員としては、若者に夢ばっかり語ってられないなっていう、非常に厳しい現実があるのは悲しいところなんですけども、そういう話は暗くなるのでしません。
好廣: 大学院に入りまして、ヒトをやろうかと思っていたのですがなかなかうまくいかなくて、サルをみなさんどういう風に研究しているのかというところで、医学部の当時河合さんという方がサルを飼って、どういう異常行動が見られるのかという研究をしていたこと、もう一つ霊長研ができた年に、そこに赴任された久保田さんという脳生理学者が、サルを縛りつけて、頭の一部を操作して、どういう異常行動がでるのかという研究をしていました。これはあかんなあと、僕にはできない、やっぱり生きたサルがやりたいということで志賀高原に行ったのがスタートです。
丸橋: 私の場合は、大学に入学した頃、ちょうど遺伝子の研究が活発になってきていました。今で言う遺伝子治療、遺伝子病、いろんな病気のほとんどが遺伝子で決まっているから、その一つ一つを丁寧に解明して、それを役立てれば医療は劇的に展開するという話を聞いて、「そうだ!私も遺伝学者になろう」と思って実験をしました。ところが私は扁平足なんですよね。したがってあのようにじっと立って何時間も実験することができなかった。そこで、ゆっくり歩いていれば足の痛みも感じないので、なにかゆっくり歩きながらできる仕事はないかなと思っていたら、サルは1日に1kmか2kmしか動かないと聞いて、これだ!!って。(会場爆笑)これだったらスピードにも負けないし、あの速さもなんとか追いつけるのではないか、あとは忍耐だけだろうということで始めました。そういうことで、若い方はとくにですね、忍耐こそが自らを育てるということを思っていただければと思います。でも自分の身体的な問題というのは人の未来を結構決めるものです。なのでコンプレックスに感じることはないですよ。私もそれまでは結構コンプレックスだったんですよ。早く歩けないとか、走れないとか、特に一番いけないのはプールの端を歩くと綺麗な足跡に比べて、あとで気がついたんですよ、これこそが仏足石だと。もしあれに模様がついていれば私は仏様だったのですが、残念ながら模様はつかなかったのでこんなことをしております。

早石: ありがとうございます。お時間迫ってきております。今日はYouTubeでもこの会場の様子をライブ配信しているということですので、カメラを通してもたくさんの方が見ていると思いますので、最後に半谷さんにこれからの調査員にどんどん来てもらうためのメッセージを一言頂いてもよろしいでしょうか。
半谷: はい。時間がありませんので一言だけ申し上げます。皆さん今日はありがとうございました。



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